続・ほのぼののなかみ

気になったこと。派生、脱線、発見ブログ

やった!貯まる一方だ!

お金がどんどん貯まる一方です。

 

一向に減りません!

 

といった話ではなく。

 

ブログの話です。

 

ブログを書き始めて3か月程経ちました。更新頻度は決して高くはありませんが、だんだんと記事が貯まってきました。(「溜まる」が用法としては正しい漢字なのでしょうか?ただ、「溜まる」には負のイメージを私は感じるのでプラスのイメージの強い「貯まる」を使うことにします)

 

お金は使えば減りますが、ブログ記事は減りません。今現在30の記事があります。30という数は全然多いとは思いませんが、なにせ減らないのです。貯まる一方。書いたら書いた分だけ貯まります。うれしい限りです。

 

ふと、自分のブログを読み返してみて、たまっていることに気が付いたんです。そして、たまっているものの中身も溜まっているではなく、貯まっていると表現したくなるものでした。

 

そして、自分で読んでも「へぇー、こんなこと思ったんだぁ」などと、どこか他人ごとのように客観視して振り返ることができます。

 

その記事を書いた時の思いがそこに瞬間冷凍されて、姿かたちが変わることなく鮮度そのままに保存されています。

 

以前は感じたこと、学んだことをアウトップトする場がなかったのでせっかくの気づきや学びも忘れてしまったり、生かすことができていなかったように思います。ブログはアウトプットの場でありながら、インプットしたものの貯蔵庫になっています。

 

時々、過去のブログ記事を振り返ってその内容を記事にする投稿もしてみようかなと考えています。復習の重要性を語る時に示されるエビングハウス忘却曲線ほど急激ではありませんが、せっかくの学びを忘れてしまいますからね。

 

これからもコツコツ書いていきたいと思います。

 

 

いいですね、ブログって。

 

 

 

目標だけだと苦しい

「3人のレンガ職人」の話をご存じでしょうか?

 

イソップ寓話の話として語られる事が多いようですが、中学校の校長先生が作った話のようですね。(諸説あるようです)

 

旅人がレンガを積んでいる3人の職人に「何をしているのですか?」と問いかける話で、目的について考えるきっかけになります。

 

こういった話を創作できる人に憧れます。

 

仕事の場面では特に、伝えたいことを難しい言葉を使わずに聞いている側が理解しやすいようにこうした物語や例えを用いて伝えることを意識して取組みたいものです。

 

どんなに伝えたいことでも伝わらなければ意味がないですし、どんなに正しい論理であっても理解してもらえなければ意味がないですよね。

 

どう理解するか、納得できるかは受け手に委ねられている部分も大いにありますが、話し手は伝わるように話をする必要があるんですよね。

 

あらためてそんなことを思いました。

 

 

 

職場では次年度の目標設定を行っています。発表されている目標もあります。

 

必要だと頭でわかっていても目標、目標、目標と示されると息苦しくなります。

 

正直言いまして

 

「あ~~、めんどくさっ」

 

と思ってしまうこともしばしばです。

 

私以外の職場のメンバーでも同様に感じている人がいるのではないかと思っています。

 

 

目標達成に向けて職場のメンバーと力を合わせて取り組んでいくことになりますが、目標の先にある目的をしっかり伝える必要性を感じています。

 

目的目標の違いについてはネットで知らべると、いろいろな表現で説明されています。

 

目的は最終的に到達する場所、ゴール、何のためにやるのかといった意義や意味

 

目標は目的を達成するための途中の目印、手段

 

といった感じがざっくりした説明になるでしょうか。

 

目標は売上金額や契約件数などのように数字で示されることも多いです。無機質なものなりがちです。何のためにやるのかという部分(目的)が抜け落ちてしまうと苦しいだけではないでしょうか。

 

目的を持つことの大切さ、自分たちの仕事の目的を明確にしてもらうために職場のメンバーに「3人のレンガ職人」話をしてみようと思います。自分で物語を作ることはなかなかできませんが、紹介することは可能ですからね。

 

 

今日は「最高のリーダーは部下の”感情″を動かす」著者村田祐造 を読んだことをきっかけに考えたことを書いてみました。こちらの本に書かれていることからはだいぶ脱線した内容になってしまいましたが…。

 

以下、本書の一部を紹介させていただきます。

 

「こうすれば勝てる」というセオリーを論理的に説いても、部下がついてくるとは限りません。なぜなら人は、論理だけでなく感情で動くからです。(表表紙の裏)

 

挑戦意欲の高いリーダーが、考えすぎて、自分の心も相手の心も感じなくなる。そして、相手に正しい「行動」を求めるあまり、相手の「感情」を踏みにじってしまっている。しかも、本人にはまったく悪気はない。よかれと信じて一生懸命にやっている。(20頁)

 

 

メンバーに測定可能な目標を「指示する」リーダーはよくいますが、その目標に挑戦する理由、わくわくするような目的を語り、メンバーの感情を「支援する」リーダーはあまりいません。感情の世界は見落としやすく、行動の世界はよく見えます。ですから、ついつい未熟なリーダーの仕事は、行動の世界に偏ってしまいます。(21~22頁)

 

 

 

最後に…

 

「3人のレンガ職人」の話はググっていただければすぐ見つかります。その話に付随しておもしろい記事を書いているかたも多くいらっしゃるので興味がある方はぜひ読んでみてはいかがでしょうか。

 

 

 

 

「本当の自分」はどこにいる?

「自分」の中にあるであろう、たった一つの「本当の自分」を探す旅に出たことがありますか?

 

私はかつて何度もその旅に出ました。

 

その旅は道中を楽しめることもあるかもしれませんが、苦しむこともあります。出口があるのかすらわからない迷路をひたすら彷徨うことになりかねません。

 

「自分」を生きる方法はたった一つの「本当の自分」で歩むことなのでしょうか?

 

たった一つの「本当の自分」なんてものはそもそも存在するのでしょうか?

 

 

『分人』

 

この言葉を聞いたことありますか?「ぶんじん」と読みます。

 

私はこの単位が好きです。

 

『分人』は小説家の平野啓一郎さんが提案する人間の基本単位です。

 

平野啓一郎さんの著作の中にも『分人主義』の考え方が登場します。

 

小説としてでなく『分人主義』について書いている本もあります。

 

【内容紹介】

 

[本書の目的は、人間の基本単位を考え直すことである。](3頁)

 

冒頭にそう書かれています。

 

たった一つの「本当の自分」なんて存在しない、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」と考えられるのではないか。『個人』(individual)という「もうこれ以上分けられない」ものとする人間の単位のひとまわり小さな単位として『分人』(dividual)を導入するのが良いのではないか。

 

[一人の人間は、複数の分人のネットワークであり、そこには「本当の自分」という中心はない。](7頁)

 

[私という人間は、対人関係ごとのいくつかの分人によって構成されている。そして、その人らしさ(個性)というものは、その複数の分人の構成比率によって決定される。](8頁)

 

親、友達、同僚、恋人などそれぞれの人の前での自分は同じではない。意識的にキャラを演じ分けているのでしょうか?無意識的にキャラが違うこともあるのではないでしょうか?どこかに本当の自分がいるのでしょうか?

 

新旧の友人が同席したときにある気まずさ。ネットとリアルでの違い。

 

分人主義では変化を肯定的に捉えられる。

 

長年の関係性があり、よく知った友人が自分以外の人の前では全く違う性格であることもあるのだ。どっちが裏の顔でどっちが本当の姿というわけではない。

 

[貴重な資産を分散投資して、リスクヘッジするように、私たちは、自分という人間を、複数の分人の同時進行のプロジェクトのように考えるべきだ。学校の分人がイヤになっても、放課後の自分はうまくいっている。それならば、その放課後の自分を足場にすべきだ。それを多重人格だとか、ウラオモテがあると言って責めるのは、放課後まで学校でいじめられている自分を引きずる辛さを知らない、浅はかな人間だ。学校での自分と放課後の自分とは別の分人だと区別できるだけで、どれほど気が楽になるだろう?](94頁)

 

【感想】

自分という個人を分人として捉えることで自分を肯定的に考えられる気がします。自分の個性をより良いものに変えやすくなる気がします。そして、他人の行動や態度に寛容になれる気がします。嫌な部分があったとしてもそれがその人の全体ではないと思えるとその人の幸せを願うこともできます。分人という考え方に興味がある方は平野啓一郎さんの小説や今回紹介した『私とは何か「個人」から「分人」へ』を読んでみてはいかがでしょうか?

もしアドラーが上司だったら

円錐(えんすい)って知ってます?

 

底が円になっていて、上に行くほど細くなっている、アレです。

 

体積の求め方は

 

底面積(半径×半径×円周率)×高さ×1/3

 

中学校の数学で体積の求め方を習う、アレです。

 

さて、

 

円錐を真横から見るとどんな形でしょうか?

 

 

円錐を持ち上げて底から見るとどんな形でしょうか?

 

 

 

『もしアドラーが上司だったら』著者 小林 広 を読みました。

 

【内容紹介】

この本は心理学者アルフレッド・アドラーアドラー心理学の考えを実践していくヒントになる小説仕立ての本です。

 

一部を紹介したいと思います。

 

営業マンのリョウ君と上司のドラさん

 

営業マンのリョウ君がクライアントから依頼を受けたことに対してやったことが問題になり、リョウ君はそのことを失敗と捉え、その面に注目してすっかり落ち込んでいました。そんな時に、以前に出していた宿題を覚えてる?とドラさんが問いかけます。

 

「できてないところでなく、できているところに注目する」

 

という宿題

 

そうはいってもリョウ君は今回の件は紛れもない『失敗』であり、否が応でも『失敗』という言葉が頭に浮かんでしまいます、と。

 

そんなリョウ君にドラさんは、学んだこと、わかったこともあるよね。今回の件はリョウ君にとって、いい『経験』だったと。

 

納得いかないリョウ君に冒頭で紹介した円錐を話題にします。

 

 

円錐を真横から見るとどんな形でしょうか?

 

 

円錐を持ち上げて底から見るとどんな形でしょうか?

 

 

円錐は真横から見ると『三角』で、底から見ると『円』

 

どっちが本当で、どっちが偽物でしょうか?

 

 

『失敗』も本当だけど『経験』も本当であるとリョウ君は気が付きます。

 

 

 

そして、その後も物語はまだまだ続いていきます。

 

【感想】

 

ひとつの出来事でもどこから見るかによって全然違ったものに見えるものなんですよね。

 

物事は多面的で、同じものを見ていても自分と同じように他の人は見えていないこともあるし、自分の見方のくせもあるだろう。自分の見方のくせを意識しておいた方がいいなと感じています。そして、意識してポジティブな面に注目していこうと思います。

 

 

この本の中では、ポジティブな面に注目することに対するリョウ君の違和感、誤解も物語になっています。

 

注目することと見ることは違う。ネガティブな面を見てはいけないと言ってるわけではないと。

 

この辺、その他の部分もまた別な機会に記事にしたいです。この本の中心的なところは全然書けていないですからね。

 

 

 

アドラー心理学に関する本は「嫌われる勇気」が非常に有名ですよね。私も以前に読んで非常に感銘を受けました。多くの人が紹介していますが、こちらについても私もいつか記事にしたいです。

 

 

 

 

今回紹介した『もしアドラーが上司だったら』は「嫌われる勇気」を読んで他のアドラー心理学に関する本を読んでみたいと思う方におススメです。

 

この記事で内容の良さを紹介できていないように思っていますが、表現しきれなくても、伝わりきれなくても誰かの頭の片隅には残ってくれるのではないかという思いもあります。ですので、ポジティブな面に注目して、うまく紹介できていなくても紹介できたことに意味がある、受け取り方は相手次第。よくできましたと自分の頭をなでておきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分の好奇心に興味を、自分の興味に好奇心を。

 

私は熱が上がりにくいようです。

 

体温ではなく、物事へ興味、好奇心、といった熱です。

 

私の中にも熱はありますがその熱が上昇しにくいように感じています。

 

 

 

熱中できる、熱狂する。

 

すばらしいことだと思います。

 

特定の好きなアイドルの追っかけをしたり、特定の好きなサッカーチームを応援したりできることってすばらしいと思います。

 

私はなかなか、熱中、熱狂しきれないんです。

 

なんでだろう?

 

 

水のように比熱が非常に大きいため温まりにくいとでも言いますか

 

レニウムタングステンのように沸点が高いとでも言いますか

(沸点が高い物質はこっそりグーグル先生に教えてもらいました)

 

単純に鈍感と言いますか

 

心が沸き(湧き)上がることが少ないようでした。

 

自分の好きなものが自分ではっきりしていないようでした。

 

今よりはっきりさせていきたいと思っています。

 

ですので、

 

心の沸点が低くなるように気圧の低いところへ行こう、そして心の温度が上がりやすい物質に変化しよう。

 

(?)

 

心の温度上昇を抑える行為はやめよう。

 

冷や水を浴びせることはやめよう。

 

よく燃えるように薪をくべよう。

 

 

自分の好奇心、興味を抑え込まない!解放しよう!育てよう!

 

 

そう思った次第です。

 

 

 

ふたつ前の記事を書いている時に再認識した内向型の部分への興味をすぐに、あらたな本(ひとつ前の記事に書いた本[内向型の生き方戦略ー「社会から出て、境地を開拓する」という生き方提案])を読むことに繋げられたのはよかったと思います。その本にあったように好奇心をエネルギーに楽しくマイペースに進むことを意識して行動していこうと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

内向型マジック

 

 

内向型の生き方戦略ー「社会から出て、境地を開拓する」という生き方提案  著者 中村あやえもん

 

 

読みました。

 

 

衝撃を受けました。

 

 

初めて知る突飛なことが満載でそれに衝撃を受けているわけではありません。

 

 

マジックの種明かしを見た感覚に近いです。

 

マジックは種を知らないで見ると、どうしてそうなるのか不思議でたまらないですよね。

 

 

でも、種を知ると、

 

 

そんな単純なことだったのかぁ

 

 

やっぱりそうだったのかぁ

 

 

自分にもできそうじゃん

 

 

なんて感覚になったりしますよね。

 

 

それです。

 

 

読んでいて、やっぱりそうだったのか感が満載でした。

 

そして、少々意外に感じる部分もありました。

 

自分をみくびっていたかもしれません。

 

そう思わせてもらえた本でした。

 

本書では外向的な人を「社会維持型」、内向的な人を「境地開拓型」と定義してそれぞれの特性や違いを紹介しています。

 

 

変えようとする対象の違い

 

幸せの感じ方の違い

 

「場」への興味か「個」への興味か

 

親密さと距離感の感じ方の違い

 

コミュニケーションを取る意味合いの違い

 

その他、日常の中での感じ方の違いが紹介されています。

 

私が自分を語る上でキーワードになるものがたくさん出てきました。

 

社会、自由、結婚、子供、お祭り、ハイテンション、他者からのお願い、個性、流行、変人、生きる意味、目的、好奇心、旅、予定、マイペース、ライフスタイル

 

 

 

境地へ向かう生き方

 

 

変人として生きていこうする覚悟

 

 

自分の好奇心を大切にする生き方

 

 

もっと前へ前へ新しい場所へアグレッシブに

 

 

できる気がしてきた

 

 

 

 

 

人、エネルギー、内向型

忙しかったのは確かですが・・・。

 

 

久しぶりのブログです。

 

ようやく仕事が一段落ついたというのはあります。具体的な業務において、精神的な部分において。負担感は肉体的なものより精神的なものによる部分が多かったように思います。

 

自分でブログを書くのはエネルギーが必要です。なので、一切書いていませんでした。それに加え、誰かのブログを読むということもしていませんでした。

 

日常的に読んでいた人達に興味が無くなったというわけではありません。ブログというもの自体に魅力を感じなくなったわけでもありません。

 

それなのに一切読んでいませんでした。

 

私の場合は自分のブログを書くのにエネルギーが必要なように、誰かのブログを読むのにもエネルギーが必要なようです。

 

日常生活において時々、人間関係に負担感を感じることが私にはあります。

 

疲れている時は人と繋がりたい欲求より、一人になりたい欲求が強い気がします。

 

以前、外向型の人と内向型の人の傾向の違いとしてエネルギーの充電方法の違いがあるというのを知った時に合点したのを覚えています。

 

外向型の人は外の世界からエネルギーを得る、内向型の人はそうではないと。

 

どっちがいいとか、悪いとかの話ではないです。

 

 

私は内向型の特性が強いように思います。

 

 

というわけで、みなさんのブログを読んだり、自分のブログを書いたりしていなかったいいわけをただただ書いてしまいました。

 

 

人が嫌いなわけではないけど人と距離を取りたくなる時があります。

 

 

もし、もしも、結婚することがあっても自分の部屋は欲しい私です。