続・ほのぼののなかみ

気になったこと。派生、脱線、発見ブログ

「本当の自分」はどこにいる?

「自分」の中にあるであろう、たった一つの「本当の自分」を探す旅に出たことがありますか?

 

私はかつて何度もその旅に出ました。

 

その旅は道中を楽しめることもあるかもしれませんが、苦しむこともあります。出口があるのかすらわからない迷路をひたすら彷徨うことになりかねません。

 

「自分」を生きる方法はたった一つの「本当の自分」で歩むことなのでしょうか?

 

たった一つの「本当の自分」なんてものはそもそも存在するのでしょうか?

 

 

『分人』

 

この言葉を聞いたことありますか?「ぶんじん」と読みます。

 

私はこの単位が好きです。

 

『分人』は小説家の平野啓一郎さんが提案する人間の基本単位です。

 

平野啓一郎さんの著作の中にも『分人主義』の考え方が登場します。

 

小説としてでなく『分人主義』について書いている本もあります。

 

【内容紹介】

 

[本書の目的は、人間の基本単位を考え直すことである。](3頁)

 

冒頭にそう書かれています。

 

たった一つの「本当の自分」なんて存在しない、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」と考えられるのではないか。『個人』(individual)という「もうこれ以上分けられない」ものとする人間の単位のひとまわり小さな単位として『分人』(dividual)を導入するのが良いのではないか。

 

[一人の人間は、複数の分人のネットワークであり、そこには「本当の自分」という中心はない。](7頁)

 

[私という人間は、対人関係ごとのいくつかの分人によって構成されている。そして、その人らしさ(個性)というものは、その複数の分人の構成比率によって決定される。](8頁)

 

親、友達、同僚、恋人などそれぞれの人の前での自分は同じではない。意識的にキャラを演じ分けているのでしょうか?無意識的にキャラが違うこともあるのではないでしょうか?どこかに本当の自分がいるのでしょうか?

 

新旧の友人が同席したときにある気まずさ。ネットとリアルでの違い。

 

分人主義では変化を肯定的に捉えられる。

 

長年の関係性があり、よく知った友人が自分以外の人の前では全く違う性格であることもあるのだ。どっちが裏の顔でどっちが本当の姿というわけではない。

 

[貴重な資産を分散投資して、リスクヘッジするように、私たちは、自分という人間を、複数の分人の同時進行のプロジェクトのように考えるべきだ。学校の分人がイヤになっても、放課後の自分はうまくいっている。それならば、その放課後の自分を足場にすべきだ。それを多重人格だとか、ウラオモテがあると言って責めるのは、放課後まで学校でいじめられている自分を引きずる辛さを知らない、浅はかな人間だ。学校での自分と放課後の自分とは別の分人だと区別できるだけで、どれほど気が楽になるだろう?](94頁)

 

【感想】

自分という個人を分人として捉えることで自分を肯定的に考えられる気がします。自分の個性をより良いものに変えやすくなる気がします。そして、他人の行動や態度に寛容になれる気がします。嫌な部分があったとしてもそれがその人の全体ではないと思えるとその人の幸せを願うこともできます。分人という考え方に興味がある方は平野啓一郎さんの小説や今回紹介した『私とは何か「個人」から「分人」へ』を読んでみてはいかがでしょうか?