「ある男」を通して自分を見る
「ある男」著者 平野啓一郎
愛したはずの夫はまったくの別人だった。
本書の紹介文にそうあります。
今年、本書を原作とした映画が公開されるんですね。
本書を読んでの私なりの内容紹介を私の過去の思いを振り返りながら書いてみました。
自分のことを知ってる人がいない場所へ行きたい。
切迫感を伴ってそう思った記憶はありませんが、何となくそう思う機会は私の場合、結構あったような気がします。
例えば中学3年生の時、その思いは志望校を決める要素のひとつになっていました。
親や学校の先生に志望理由としてその思いを伝えた記憶はありませんが、私の中にはその思いは確実に存在していました。
家から近い学校には全く惹かれませんでした。それらの学校には小中学校の友達がたくさん進学するでしょうから。
できるだけ知り合いの少ない高校に行きたいと思っていました。
それは当時の自分の中に今までの自分とは別の自分に変わりたいという願望があったからのような気がします。
同じくらいの偏差値の学校は近くにいくつもありましたが、わざわざ電車を2回も乗り換えなくてはいけない学校を志望した私は、望んだとおり知り合いが誰もいないその学校に入学することができました。
別に中学時代にひどいいじめがあったりで、何としても逃げ出したい現状があったわけではありません。
過去の環境との決別、過去の自分との決別、別人になりたいというほどの強い思いではない、何となく変わりたい程度の思いでした。
社会人になって二度転職をしました。二度とも引っ越しを伴う転職をしました。そこにも中学生の頃と同じような思いがありました。
強烈な思いではないですが、私のことを知っている人がいない場所に惹かれている私がいました。その方が新しい私になりやすいと思っていました。
さて、
私のことを知っているとは何でしょう?
交友関係、家族関係、学歴、職歴、名前、性格、考え方、キャラクター…私の今と過去。
過去。
人の過去を知りたくなりますか?
愛する人の過去を知りたくなりますか?
それはなぜでしょう?
その人の過去を知ることがその人の今を知ることになるのでしょうか?
その人の過去を知ることがその人の全体を知ることになるからでしょうか?
全体を知らないとどうなるのでしょうか?
過去と今はどの程度強く繋がっているんでしょうか?
過去の重要性はどの程度でしょうか?
今愛しているその人の本当の過去が自分が知っているその人の過去と違ったらどうでしょうか?
他人の過去。自分の過去。
自分のことを伝えるのに私もこの記事で中学生の頃、転職時と私の過去の思いを紹介しました。
過去は他人、自分を理解する上では使い勝手がいい情報です。
だからといって過去と今はイコールではありません。
過去のあの人と今のあの人。
過去の私と今の私。
どんな関係性でしょうか?
今の自分を変えるためには過去を変えないといけないのでしょうか?
未来を変えるためには過去を変えないといけないのでしょうか?
過去を変えられますか?
過去があって今があると考えるなら、今を変えるためには過去を変えないといけなくなってきませんか?
もっと違った考え方があると思いませんか?
私はあると思います。
どうでしょうか?