ほどのよさ
『人生は、だましだまし』 著者 田辺聖子
70歳を過ぎた著者が思う、ほどほどに人生を楽しむためのアフォリズム(格言や処世術というほど堅苦しくない独自の個性的な機知に富んだもの)が紹介されているエッセイ集です。
私「何か本貸しますよ?確か、田辺聖子さんの本を読んだって言ってましたよね、じゃあ、読んだ作品以外の田辺聖子さんの本を今度持っていきますね」
以前に本を借りた方にお礼も含め本を貸すことにしました。
『人生はだまし、だまし』を貸すことにしました。
手元にある数冊の田辺聖子さんの本の中から何を貸そうか思案しましたが、手持ちの本は少しばかりその人のイメージと違ったので、まだ私自身読んだことがない作品でその人に合いそうな本を買ってみることにしました、読みました。
ネットは便利ですよね、最近の本でなくてもすぐに手にいれられますからね。
家にいながら思い立ってすぐ行動に移せるので、いい機会を逃しにくくなります。
【内容紹介】
『人生はだまし、だまし』
作品タイトルからどんな印象を受けますか?
おおよそ、その印象通りの内容です。
そうは言っても、人それぞれ抱く印象は違うでしょうし、抱いた印象と実際読んだ時に感じたことが一致しないこともあるでしょう。
もし、期待していた内容でなくてもそんなに目くじら立てんでくださいな。
「まあ、こんなトコやな」(42頁)
と思っていただければ。
そんな感じの「好もしい」本です。
いい男、憎めない男の話の中で、可愛い男と可愛げのある男をわらび餅と桜餅で例え、わんぐり食べられるわらび餅と、桜の葉の塩味がまことに微妙であとを引く、いわくいいがたい、味がまつわりついている桜餅のそれぞれの魅力の違いを語っていたりします。
人間の金属疲労の話なんかもあります。(なんのこっちゃってところでしょう)
[金属疲労は劣化の結果ではあるものの、〈先が読める〉という利点ももたらす。経験を積み、それが若干の見識を与える。何かというと〈見逃す〉〈聞き逃す〉〈知らぬふり〉という新手の生きかたの発見である。](20~21頁)
[若いときのように理屈もぶたず、人を説得しようと躍起にもならぬ。それは人間の限界を知るから。―そんな風に生きてて何がおもろまんねん、と若い衆にふしんがられるが、内心ニンマリして、案外、世の中をたのしんでいる。](26頁)
さらに、[オトナ度]の章にあるアフォリズムを引用させていただきます。
[人生には時として〈ナアナア〉ですます、ということが時として必要であるが、その〈ナアナア度〉が一致するのが仲のいい夫婦である。](201頁)
私も肩ひじ張らず、べきのお化けにならないで過ごしたいものです。
↓メモ
角熟、あんよ、略称で呼べる人、同調、あまのじゃく、保たせる、真情、しどろもどろ
、品よくおとろえてゆく、こむら返り、そやな
それでは今日はこの辺で。
「ほな」
(「ほな」についてはまたいつか別に機会に書きたいと思います。好きな言葉です。)